ウェンディ・マクマード インタビュー訳

Unthinking Photograpghyによるウェンディ・マクマードへのインタビュー。気になったところを部分的に翻訳してみる。

 

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ー普段から写真表現に関して深掘りしていることを踏まえて、今日の技術環境から生じる喫緊の問いやイシューは何だと思いますか?また、それはあなたにとって1990年からどのように変化してきていますか?

興味深い質問ですね。そのことについては最近考えていました。新しいソフトウェアや別のアルゴリズムを使っていままでとは異なる制作のあり方を試しているところだったので。思うに、この種の作品をどのように位置付けるかということは問いのひとつとしてあるのではないでしょうか。

当然ながらインターネットは、作品を展示するサポートをしてくれるキュレーターや施設を見つけるためのきっかけを掴む場であるほかに、アイデアを拡散すると同時にそれ自体が作品を公開することもできます。非常に流動的なデジタル上のこの取り組みが表しているのは、カテゴライズを困難にしていること。そしてそれこそが、われわれが生きる複雑で階層化された情報化時代を完璧に捉えており、流通や拡散に関する方法論をの大幅な再考を意味しているのです。当時、私はイギリスのギャラリーのネットワークの中でデジタル/写真作品を展示していました。今、活動しているアーティストたちはどこで新しいデジタル写真の取り組みを発信すればいいのでしょう?それが問題です。

 

あなたの作品は、写真、ビデオ、映画、そして、アニメーションの間を移動してきました。「写真」は、1990年代がそうであったように、あなたにとって今もなお意味のあるカテゴリーとして機能するものですか?あなたは、デジタル時代におけるメディウム・スペシフィティの支持者ですか?

そうですね…例を挙げると、私が最初にカメラを手に取り、撮影した「In a Shaded Place」の頃のもよりも、今、写真は明らかに異なるものとなっています。当時、写真は、現実(というよりも、「リアル」と「デジタル」の間にあるわれわれの関係性と呼べるもの)を表象するために利用できた唯一のツールでした。現在、そうした表現をするための数多の異なるツールがあり、そしてその多くが、われわれが生きる複雑でネットワーク化された世界を表現するのにより適しています。

私は、メディウム・スペシフィティの支持者でしょうか?新しい作品のためにアイデアを出そうとするとき、いくつかのポイントではカメラを手に取ることなしには想像できません。「身の回り」を可視化するには一番簡単な方法ですからね。しかし、そこからさらに自分の関心を表現するためには、アルゴリズムやフィルターを経由する必要があると感じています。テクノロジーアイデンティティを形作る状況に関心がある人にとって、特定の条件、制約、そして、写真史(しかも、初期から技術の発展を反映しているもの)について考えることは、有効なスタート地点になると思いますよ。「儚さ」はデジタル時代の写真を特徴づけているように思えます。しかし再び、今、アーティストたちは「モノ」の世界に戻りはじめることで抵抗もしています。モノを「つくる」必要性はつねに出てくるでしょう。自らの手を汚すのです。

 
メディウム・スペシフィティ
素材や媒体に固有の性質のことを示す美学/批評用語(クレメント・グリーンバーグが提唱)。なお「ポスト・メディウム」は、芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化されるべきである、とするクレメント・グリーンバーグによるモダニズムの規定(メディウム・スペシフィシティ)に抗して、アメリカの美術批評家ロザリンド・E・クラウスが2000年頃より提唱している概念。