Harley WierのRubbish(ゴミ)

もはやファッション・フォトグラファーという肩書きのみでは、活動を追えなくなってきた感のあるHarley Wier。最近は、ドキュメンタリーとリサーチの性格が色濃く出た作品をつくり続けている。

その流れを受けてかi-Dが「plastic is not fantastic」というタイトルの記事で Rubbish(ゴミ)を撮り続けているシリーズについてインタビューを行なっている。リード文では肩書きをファッション・フォトグラファーと紹介しているが、内容はファッションとはほぼ関係なく、プラスチックにおける環境破壊とそうした問題への気づきをどう促すかという話がメインだ。

i-d.vice.com

 

そもそもファッション誌のi-Dが、接点のないように見える環境問題について質問しているのがちょっと面白い。もちろんファッションにとどまらずカルチャー誌の性格を持つ媒体の性格上、こういったトピックが入ってくることが不自然というわけではない。ただ、「ファッション・フォトグラファー」と紹介している手前、ファッションからは飛躍した話題となっていることに対してはとくに説明がないままに質問へと進んでいくギャップが興味深い。

この記事はもともとno. 353 The Earthwise Issue」に掲載されているもので、特集としての大きなテーマがある。アウトラインを紹介する記事では、環境問題やジェンダー、人種に関する問題に対してアクションを起こし、変化を生み出す人々をフィーチャーするという意図があるらしい。そしてさらにそういったアクションは、こんな言葉で説明されている。

 

It was bigger than fashion and felt like a vital new way of presenting clothes.

(それはファッションよりも重要で、服をプレゼンテーションするための新しく必要不可欠な方法のようだ)

 

i-d.vice.com

 

これはDemna GvasaliaがBalenciaga 2018FWのコレクションにて、人道支援組合「The World Food Program (国際連合世界食糧計画)」 の「WFP」ロゴをアイテムに配したことを受けての言葉。ちなみにDemna 本人はこの取り組みについてこうコメントをしている。

 

私たちは、このThe World Food Programmeとのパートナーシップを、ファッションを異なる方法で活かしながら、私たちの製品で、できる限り慈善活動をサポートしていく重要な一歩だと考えています。


http://fashionpost.jp/fashion/fashion-collection/129755

 

近年の傾向のひとつとして、ファッションブランドや産業は、こうしたCSR的な取り組みに力を入れ始めている流れがある。素材の加工方法から在庫の大規模な廃棄問題まで、ファッションシステムを形成するプロセスにおいて、いままで蓋をされてきた問題に光が当たりはじめているのだ。

 

i-d.vice.com

 

なぜ問題を積極的に解決していく方向へと舵を切るのか、さまざまな要因があるだろうが、そのうちのひとつにいわゆるミレニアル層の社会問題への関心の高さがそうさせている部分があるのではないだろうか。今後、購買層となる若い世代の獲得を進めるには、Balenciagaがやったように、いかに問題へとアプローチするかというその姿勢がブランディングの方法論として確立されつつあるようだ。

やや古いトピックになるが、ファストファッションの代表格であり、同時に槍玉にもあげられやすいH&Mが2016年に「World Recycle Week」と題してM.I.Aを起用したキャンペーンを展開していた。

 

www.youtube.com

 

 

だいぶ遠回りをしたが、つまり、冒頭に取り上げた記事でi-DがHarley Wierに環境問題に関する質問をしたことにはこのような文脈がある。ファッションとは遠からず、近からず関わりのある問題として取り上げられているわけだ。HarleyのRubbishシリーズは、こうしたファッション業界の動きと並走しているとも捉えられるし、もしファッションフォトのひとつのあり方であるといえるのであれば「服をプレゼンテーションするための新しく必要不可欠な方法」としてちょっとした広がりが生まれそうだ。

ただし、Harley は質問に対してきっちりと答えているが、写真そのものについてはとくに聞かれていないため、基本的には環境問題に対してどう考えているかという返答だった。ただ、よくよく写真を見てみると、わりとがっつりゴミでありグロテスク。俯瞰から撮影された感じも含め、どちらかというとアートフォトの実践に近いといえるのではないだろうか。このRubbishシリーズは、近年のエグさを内包するような作品をつくり続けている彼女の流れから考えた方がじつはより自然であるというのが事実かも…とも思う。

ちなみにHarley の別アカウント@rubbish_1.2にて(本人の名前は出していないものの)ゴミの写真をアップし続けている。ここではプラスチックのゴミだけに縛っているわけではなく、じめっとして不快にも思えるあらゆるゴミを撮影している(ここまで幅広く撮影しているとゴミのテクスチャが好きなのだろうかなど思えてくるほど…)。

www.instagram.com

 

i-Dのインタビューではこのアートフォトとしての実践という視点が抜けていたために変なギャップが生まれていたのではないかと思う。環境問題を提起するという大義はあるものの、よりパーソナルで嗜好性に偏った視点も含まれていることをスキップしてしまうとやはりやや違和感は残る。Harley本人も「ミレニアル世代」に含まれるだろうが、社会問題に全振りというわけではなく、パーソナルでフェティッシュな視点も併せ持つ感じは、ひとつ上の世代との間に立つ彼女らしさが表れている気もする。


そんなわけで、ファッションブランドをはじめ業界全体がソーシャルイシューへと取り組む中、どこまで写真としての表現が許容されるのか、Harleyを軸に見ていくと今後のゆくえがわかり面白いのではないだろうか。

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追記(2018/10/5):

たまたま見つけたが、すでに2017年時点でHarleyがステラ・マッカートニーのキャンペーンのもと「ゴミ」を撮影していた。ゴミ処理場で撮ったというロケーション以外の意味性はなさそうだけど、彼女の存在なしでは成立しなかったはず。

 

www.fashionsnap.com



 

 

 

 

Foto_museumのポスト・フォトグラフィー用語集

f:id:eisaku_sakai:20180902140646p:plain

https://www.fotomuseum.ch/en/

 

スイスのヴィンタートゥールにあるFoto_museumのサイトを見た時、たまたま見つけたお遊び(?)的な仕掛け。上部の美術館ロゴの間にランダムでポスト・フォトグラフィーに関係しそうな言葉が入る。どうやら展示やプログラムなどと連動しているものもあるらしいが、詳細はよくわからない。

いずれもデジタル環境を前提としたキーワードで、エンジニアが使う用語などが組み合わさったものがあったりする。単語を見るだけでもどんなテーマにフォーカスしようとしているのか、現代における写真の役割や効用が何なのかがちょっとだけわかる。

ということで、ひたすら⌘+Rを押しまくり、ランダムに出てくる言葉を可能な限りメモした。暇なのだろうか。個人的には「Bye-Bye Photography」や「LOW-RES PEOPLE」などが笑えて好き。あと誰か数字だけのやつの意味がわかる人、教えてほしい。ひとつひとつのデザインも凝っているので実際にアクセスして見てみてくれ。

 

・(IN)STABLE

・Hackerazzi (Hack + Paparazzi)

In Defence of the Poor Image

・Expanded Photography

・Placeholder (変数)

facts, not memories

Truth is a trick of the light

SEEING MACHINE

Immersive

to look is to label

・Aisthesis (知覚)

・Soft Resetrestart of a device

・Remediation (改善 修正)

bit rot (http://ascii.jp/elem/000/000/982/982708/

・Algorithmic Visionhttp://www.desvirtual.com/algorithmic-vision/

GLITCH

A COPY OF A COPY OF A COPY

IMAGES WITHOUT VIEWRS

you must not call it photography, if this expression hurts you

LOW-RES PEOPLE

EVIL MEDIA

・Parasite

・Photochopped

Digital Scum

・Attention Marchants

Pics or it didnt happen

blickregimegaze regime)

Surveillance

Networked

Universal Voyeurism

・#NOFILTER

・Selfie Communism

What do pictures want?

Still Searching…

are you watching closely

・Reformatting Reality

・Upload Fever

5 14 3 15 4 5 4

THE RIGHT TO LOOK

Bye-Bye Photography

:-P

 

※一見して意味がわからなかったものは簡単に調べ、()中に直訳や解説のリンクを書き込んでいる。

ウェンディ・マクマード インタビュー訳

Unthinking Photograpghyによるウェンディ・マクマードへのインタビュー。気になったところを部分的に翻訳してみる。

 

unthinking.photography

 

vimeo.com

 

 

ー普段から写真表現に関して深掘りしていることを踏まえて、今日の技術環境から生じる喫緊の問いやイシューは何だと思いますか?また、それはあなたにとって1990年からどのように変化してきていますか?

興味深い質問ですね。そのことについては最近考えていました。新しいソフトウェアや別のアルゴリズムを使っていままでとは異なる制作のあり方を試しているところだったので。思うに、この種の作品をどのように位置付けるかということは問いのひとつとしてあるのではないでしょうか。

当然ながらインターネットは、作品を展示するサポートをしてくれるキュレーターや施設を見つけるためのきっかけを掴む場であるほかに、アイデアを拡散すると同時にそれ自体が作品を公開することもできます。非常に流動的なデジタル上のこの取り組みが表しているのは、カテゴライズを困難にしていること。そしてそれこそが、われわれが生きる複雑で階層化された情報化時代を完璧に捉えており、流通や拡散に関する方法論をの大幅な再考を意味しているのです。当時、私はイギリスのギャラリーのネットワークの中でデジタル/写真作品を展示していました。今、活動しているアーティストたちはどこで新しいデジタル写真の取り組みを発信すればいいのでしょう?それが問題です。

 

あなたの作品は、写真、ビデオ、映画、そして、アニメーションの間を移動してきました。「写真」は、1990年代がそうであったように、あなたにとって今もなお意味のあるカテゴリーとして機能するものですか?あなたは、デジタル時代におけるメディウム・スペシフィティの支持者ですか?

そうですね…例を挙げると、私が最初にカメラを手に取り、撮影した「In a Shaded Place」の頃のもよりも、今、写真は明らかに異なるものとなっています。当時、写真は、現実(というよりも、「リアル」と「デジタル」の間にあるわれわれの関係性と呼べるもの)を表象するために利用できた唯一のツールでした。現在、そうした表現をするための数多の異なるツールがあり、そしてその多くが、われわれが生きる複雑でネットワーク化された世界を表現するのにより適しています。

私は、メディウム・スペシフィティの支持者でしょうか?新しい作品のためにアイデアを出そうとするとき、いくつかのポイントではカメラを手に取ることなしには想像できません。「身の回り」を可視化するには一番簡単な方法ですからね。しかし、そこからさらに自分の関心を表現するためには、アルゴリズムやフィルターを経由する必要があると感じています。テクノロジーアイデンティティを形作る状況に関心がある人にとって、特定の条件、制約、そして、写真史(しかも、初期から技術の発展を反映しているもの)について考えることは、有効なスタート地点になると思いますよ。「儚さ」はデジタル時代の写真を特徴づけているように思えます。しかし再び、今、アーティストたちは「モノ」の世界に戻りはじめることで抵抗もしています。モノを「つくる」必要性はつねに出てくるでしょう。自らの手を汚すのです。

 
メディウム・スペシフィティ
素材や媒体に固有の性質のことを示す美学/批評用語(クレメント・グリーンバーグが提唱)。なお「ポスト・メディウム」は、芸術表現はそれぞれのジャンルに固有のメディウムへと純化されるべきである、とするクレメント・グリーンバーグによるモダニズムの規定(メディウム・スペシフィシティ)に抗して、アメリカの美術批評家ロザリンド・E・クラウスが2000年頃より提唱している概念。

 

 

 

 

 

 

「Fashion Studies」トークメモ

8/25 「Fashion Studies」ファッション新リーダー論007にて行われたトークの際のメモや資料を全部ではないですがまとめておきます。

 

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登壇者:

Yoshiko Kurata(ファッションジャーナリスト/コーディネーター)

酒井瑛作(ライター/エディター)

モデレーター:

調文明(写真批評家/写真史研究者)

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マインドマップ

https://mm.tt/1136163138?t=F0JCYq4E55

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 HATRA 長見佳祐さんがまとめた図

 

 

▶︎ 1990’s

・Jurgen Teller『Jurgen Teller』 TACHEN

→雑誌『i-D』『THE FACE』

 

・ 特徴

グランジ・フォトグラフィー」

「ドレスダウン・フォトグラフィー」

1.高度なテクニックがないこと

2.お金がかかっていないこと

3.反抗的な態度

80年代のゴージャスで構図をバチバチに決めたスタイルから虚飾を引き剥がすようなラフでリアル志向なスタイルとなった。ドキュメンタリーなスナップ写真へと変化。なげやりな構図や生々しい(露悪的な)ヌード。コンパクトカメラの台頭。ポスチャリング的な視点では、ポーズを取らず、日常の姿勢を崩さない(ソファにだらっと座っている等)。

 

・Mark Borthwick

http://www.dazeddigital.com/photography/gallery/11530/9/mark-borthwick-is-not-in-fashion

→雑誌『Purple』『Self Service』

 

・Wolgang Tillmans

ラフなスナップを撮っているように見えて実は照明や構図など緻密に考えられている。これはMark Borthwickもそう? 後に現代アートへと足を踏み入れたことを踏まえると、スナップっぽく撮っていたのは単に時代に合わせていたのかもしれない?ポスチャリングの系譜に入りそう。ゲイ、レイブ、ポスト冷戦。

→雑誌『Purple』

 

「単に服を写すものではなく、時代の空気を写し、時代のアイコンを同時代感を伴って写し、写真家と被写体の同時代的な距離感を写すもの」

インディペンデントとアートの接点

『Purple』オリヴィエ・ザム、エレン・フライスはもともとキュレーター。デザイナーと写真家の出会いを軸にした展覧会を開催したことから発展させ『Purple』に。そのため、通常のファッション誌の文脈の体裁を取らなかった(知らなかった)。

・モデルを被写体としない

・ヘアメイクを使わない/スタイリストを使わない

・スタジオで撮影しない

 



写真はかつてなく生き生きとしている

最近フィルムカメラリバイバルがひと段落してきた。「なぜフィルムで撮るのか?」ーー 若い世代の写真家のインタビューではこんな質問がお決まりになりつつある。たしかに物心ついたときからデジタルカメラを手にしていたはずの世代(とくに90年代生まれ以降)が、あえて過去へと逆行するかのようにフィルムカメラを選ぶさまはなんとなく見栄えするものがある気もする。しかし、そもそもリバイバルなんて言い方をしていいものなのか

フィルムを使うことに対して過剰に意味を見出そうとするその先には、冒頭の質問をした人たちが期待するほどの豊かな答えがあるのだろうか。*1「なんとなく選びました」じゃダメなのか。あるいは「選べるから選んだ」とか。自分は写真家本人として意見を述べることはできないので、あくまで別の視点から考えるしかないのだが、逆に聞いてみたいのは「なぜデジタルを使わないのか?」というようなことだ。

単純に逆張りをしただけなので格好はつかないのだが、すくなくともこの聞き方でフィルムのために質問し、フィルムのための回答が返ってくるという事態は避けられそうな気がする。いや、もっと言えば本当に聞きたいのは、フィルムがどうこうという話ではなく、複数ある選択肢の中からなぜそれを選び取ったのかという、その過程にある話なのだ。なので実際のところ、フィルムであろうとデジタルであろうとどっちでもいい。フィルムの話からはじめておいてなんだが、ようするに相対化にさらされモワモワと輪郭が消えつつある写真を伝統的な枠組みにあてはめてみたところで、返ってくる答えは知れたものなのではないかということだ。たとえ「なんとなく」と返されたとしても、その中に含まれる行間をしつこく考えるべきなのではないだろうか。

先日、ビム・ベンダースが「写真は死んだ」と言っていた。

 

「写真撮影はかつてなく生き生きし

そして同時にかつてないほど死んでいます」

“...photography is more alive than ever,

and at the same time its more dead than ever.

 

www.bbc.com

 

この言葉はまさに現代的な視点と伝統的な視点が錯綜し、複雑化しているさまがよく表れていた。意図の有無は置いておいて「photograph」ではなく「photography」という単語を使っていたのも、ちょっとした今っぽさを感じずにはいられない。もちろん特別に取り立てて何かを語れるような単語ではない。ただ、写真そのものというより、撮影行為を含めた、より広い意味として写真を定義するためには「photography」が適当なように思える。

この動画でビム・ベンダースが語る内容は全編にわたっていまさら言われても感はある。ただ、最後に発せられた「携帯電話を使って撮影するこの行為に当てはまる言葉を考えてくれ」という問いは、じゅうぶんに考える余地のあるものではないだろうか。(言い方はわるいが)撮り捨てにも近い形で大量の写真が撮影されていく中で、自然とフォーカスが当たるのは、個々の写真以上に撮影行為そのものなのかもしれない。もちろん一枚一枚の写真を詳細に検証する内容分析的な方法論が失効しているかといえばそうではなく、むしろその価値が揺らぐことはないだろうが、それだけである必要はない。仮に撮影行為というものにフォーカスを当てたとき、先に触れたようにデジタルかアナログかという枠組みは、あくまで行為のうちの選択のひとつと捉えられるようになるはずだ。

ヴィレム・フルッサーは『写真の哲学のために』において、カメラを「写真装置*2」と捉えた。さらに、写真を撮ることとは装置と写真家の間で執り行われる「ゲーム」であるという。なんとなく、この言葉の響きが好きだ。「photography」と似て、行為の意味合いが含まれているような感じがするし、写真とたわむれ、あそぶというようなニュアンスを勝手に導き出したくなる。ここらへんの話はもっと詳細に考えていかなければならないが、とりあえず今はエモさのみで乗り切ることとする。

ともかくここで言いたかったのは、「かつてなく生き生き」とした生を与えられた写真を前にしたとき、(ビム・ベンダースの言葉のように、相反する視点や感情が生まれるとしても)写真や写真家が実践してきた可能性を狭めてしまうようなことはしたくないということだ。そのためにはどういった枠組みや視点を設定することができるのかをつねに考えていくことが、自分なりのゲームメイク、あるいはゲームをハックしていくための唯一の方法論なのではないかと思う。

 

 

*1:メディアによってはインタビュー記事でそこまで込み入った答えは求めていないということもあるだろうが、質問の意味自体が失効しつつあるのに続ける必要があるだろうか。

*2:ほんとうは「装置」という言葉について、なぜ「ゲーム」なのかなどをちゃんと説明しなければだが、今回はエモさを優先し、割愛した。詳しくは『写真の哲学のために』を参照してほしい。厳密にはゲームを出し抜くことを写真家は実践しようとするなどが書いてある。