写真はかつてなく生き生きとしている

最近フィルムカメラリバイバルがひと段落してきた。「なぜフィルムで撮るのか?」ーー 若い世代の写真家のインタビューではこんな質問がお決まりになりつつある。たしかに物心ついたときからデジタルカメラを手にしていたはずの世代(とくに90年代生まれ以降)が、あえて過去へと逆行するかのようにフィルムカメラを選ぶさまはなんとなく見栄えするものがある気もする。しかし、そもそもリバイバルなんて言い方をしていいものなのか

フィルムを使うことに対して過剰に意味を見出そうとするその先には、冒頭の質問をした人たちが期待するほどの豊かな答えがあるのだろうか。*1「なんとなく選びました」じゃダメなのか。あるいは「選べるから選んだ」とか。自分は写真家本人として意見を述べることはできないので、あくまで別の視点から考えるしかないのだが、逆に聞いてみたいのは「なぜデジタルを使わないのか?」というようなことだ。

単純に逆張りをしただけなので格好はつかないのだが、すくなくともこの聞き方でフィルムのために質問し、フィルムのための回答が返ってくるという事態は避けられそうな気がする。いや、もっと言えば本当に聞きたいのは、フィルムがどうこうという話ではなく、複数ある選択肢の中からなぜそれを選び取ったのかという、その過程にある話なのだ。なので実際のところ、フィルムであろうとデジタルであろうとどっちでもいい。フィルムの話からはじめておいてなんだが、ようするに相対化にさらされモワモワと輪郭が消えつつある写真を伝統的な枠組みにあてはめてみたところで、返ってくる答えは知れたものなのではないかということだ。たとえ「なんとなく」と返されたとしても、その中に含まれる行間をしつこく考えるべきなのではないだろうか。

先日、ビム・ベンダースが「写真は死んだ」と言っていた。

 

「写真撮影はかつてなく生き生きし

そして同時にかつてないほど死んでいます」

“...photography is more alive than ever,

and at the same time its more dead than ever.

 

www.bbc.com

 

この言葉はまさに現代的な視点と伝統的な視点が錯綜し、複雑化しているさまがよく表れていた。意図の有無は置いておいて「photograph」ではなく「photography」という単語を使っていたのも、ちょっとした今っぽさを感じずにはいられない。もちろん特別に取り立てて何かを語れるような単語ではない。ただ、写真そのものというより、撮影行為を含めた、より広い意味として写真を定義するためには「photography」が適当なように思える。

この動画でビム・ベンダースが語る内容は全編にわたっていまさら言われても感はある。ただ、最後に発せられた「携帯電話を使って撮影するこの行為に当てはまる言葉を考えてくれ」という問いは、じゅうぶんに考える余地のあるものではないだろうか。(言い方はわるいが)撮り捨てにも近い形で大量の写真が撮影されていく中で、自然とフォーカスが当たるのは、個々の写真以上に撮影行為そのものなのかもしれない。もちろん一枚一枚の写真を詳細に検証する内容分析的な方法論が失効しているかといえばそうではなく、むしろその価値が揺らぐことはないだろうが、それだけである必要はない。仮に撮影行為というものにフォーカスを当てたとき、先に触れたようにデジタルかアナログかという枠組みは、あくまで行為のうちの選択のひとつと捉えられるようになるはずだ。

ヴィレム・フルッサーは『写真の哲学のために』において、カメラを「写真装置*2」と捉えた。さらに、写真を撮ることとは装置と写真家の間で執り行われる「ゲーム」であるという。なんとなく、この言葉の響きが好きだ。「photography」と似て、行為の意味合いが含まれているような感じがするし、写真とたわむれ、あそぶというようなニュアンスを勝手に導き出したくなる。ここらへんの話はもっと詳細に考えていかなければならないが、とりあえず今はエモさのみで乗り切ることとする。

ともかくここで言いたかったのは、「かつてなく生き生き」とした生を与えられた写真を前にしたとき、(ビム・ベンダースの言葉のように、相反する視点や感情が生まれるとしても)写真や写真家が実践してきた可能性を狭めてしまうようなことはしたくないということだ。そのためにはどういった枠組みや視点を設定することができるのかをつねに考えていくことが、自分なりのゲームメイク、あるいはゲームをハックしていくための唯一の方法論なのではないかと思う。

 

 

*1:メディアによってはインタビュー記事でそこまで込み入った答えは求めていないということもあるだろうが、質問の意味自体が失効しつつあるのに続ける必要があるだろうか。

*2:ほんとうは「装置」という言葉について、なぜ「ゲーム」なのかなどをちゃんと説明しなければだが、今回はエモさを優先し、割愛した。詳しくは『写真の哲学のために』を参照してほしい。厳密にはゲームを出し抜くことを写真家は実践しようとするなどが書いてある。